蒋介石はスターリンの傀儡だったという話

蒋介石はもともと親日でしたが、ある時を境に排日に態度を急変させ、日本への挑発行動を続け、シナ事変(日中戦争)へと誘い込みました。蒋介石がこのように動いた理由はソ連のスターリンの意向があったことがソ連崩壊後の情報公開によって明らかになっています。

 

蒋介石はなぜスターリンの傀儡に陥ってしまったのか、そしてスターリンの狙いはなんだったのかという話をします。

 

蒋介石がソ連の支援を受けていた痕跡

 

これもまたソ連崩壊後の情報公開によって明らかになったことですが、シナ事変においてスターリンは蒋介石に巨額の軍事援助を3億ドル(当時)与えており、その内訳は総計軍事顧問4000名、飛行機(戦闘機、爆撃機1000機)に上っていました。

 

そして重大なのはこの軍事顧問団4000名をモスクワが直接指揮し、蒋介石には指一本触れさせなかったことです。この事実だけでシナ事変がソ連による蒋介石を利用した対日代理戦争であったことが分かります。

 

スターリンが蒋介石を使って対日代理戦争をした理由

 

スターリンが中国国民党と日本を戦わせた理由は、俯瞰的にみると、ドイツ戦に備えるためといえます。ヒトラーはソ連を破るために東西挟撃戦略を練っていました。西からはドイツ、東からは日本、中国でソ連を挟撃しようとしていたのです。
 
 
実際ドイツは反共の蒋介石に軍事顧問を送っており、日本とも日独防共協定を結んで、国際共産主義運動を指導するコミンテルンに対抗する共同防衛を約束していることからもソ連挟撃の戦略があったことが分かります。
 
 
ソ連のスターリンはその戦略への対策として、東部国境の反共勢力である蒋介石と日本を無力化すべく、戦争させたと考えるのが妥当でしょう。そしてその両者を疲弊させた後に中国で共産党が有利に動けるようにしたのです。そして共産党はまさに「漁夫の利」を得ました。
 
 
 

蒋介石がソ連の傀儡になった瞬間「西安事件」

 
 
では長年反共だった蒋介石はいつソ連側に転んだのでしょうか。それは盧溝橋事件の半年前の1936年12月の西安事件です。
 
 
西安事件まで蒋介石は国共内戦で優勢に進め、共産党の毛沢東を僻地の延安に追い込んでいました。このとき蒋介石は中国統一を目前にしていたのです。しかし蒋介石が、総攻撃の作戦指導のために西安に赴いた1936年12月に西安事件が起こりました。同じ国民党の張学良らのクーデターによって蒋介石は拉致監禁されてしまったのです。
 
 
反日だった張学良は同じく反日の共産党側に寝返って、蒋介石を裏切りました。
 
 
この西安事件に世界が固唾を飲んで見守っていると蒋介石は二週間後に無事釈放され南京に帰還しました。すると蒋介石は9年がかりのシナ統一方針を放棄し共産党攻撃を止めて、対日戦の準備を始めました。蒋介石と日本はソ連を共通の敵としていたので日本は蒋介石に軍事顧問を送るなどして協力関係にありましたが、この事件を契機に態度を180度変えたのです。この時何が起こったのでしょうか。
 
 
その後分かったことは張学良らは中国共産党の指示を受けており、拉致監禁後、蒋介石を直接脅迫したのは中共の周恩来ということです。彼がドアを開き「校長、お久しぶりです」というと蒋介石は驚き、彼による脅迫の恐怖で狼狽したといいます。
 
 
蒋介石が釈放された翌年4月には12年間も人質状態にあった蒋介石の長男、経国がモスクワから送り返されてきました。この一連の流れを見て、欧米の歴史家は、蒋介石はスターリンに自分と息子の命を脅されて降伏、恭順したものとみています。
 
 
そして蒋介石は国共合作をし、対日戦争の挑発をし始めますが、その直前にソ連側も直接対日挑発行為を起こします(1937年6月に満ソ国境で起きたソ連のカンチャーズ越境事件)。そして翌7月から蒋介石は矢継ぎ早に対日挑発を開始しました。それが七月八日の盧溝橋事件、廊坊事件、広安門事件、通州日本人大虐殺、そして八月九日の大山中尉虐殺事件です。中でも通州事件が残虐非道な虐殺事件でしたが、これもまたソ連による指令と考えるのが妥当です。
 
 
 
 
 
 
 
立て続けに起こった中国による挑発に耐えかねた日本は大量の軍をシナに送り込み、シナ事変(日中戦争)が始まります。日本と国民党が争って両者を疲弊させたソ連は1941年、独ソ戦が始まると作戦通り東部国境を心配することなく西部戦線に専念しました。
 
 
それ以来、ソ連は蒋介石への軍事援助は中止しました。そして1944年戦争の終わりが見え始めてからは蒋介石に貸し付けた対日戦の軍事援助の返還を厳しく要求しています。蒋介石を利用するだけしたあとに、お金さえも搾り取ろうとするその様は冷酷そのものです。
 
 
戦後教育では日本が大陸の支配権拡大のためにシナ事変を起こしたとされていますが、実はそうではなく、当時の近衛内閣は不拡大方針でした。しかし、ソ連の策略によって蒋介石が日本を挑発し、日本国民を怒らせ、戦争へと足を踏み込まざるを得なくなったのです。
 
 
また、ソ連のスパイであった尾崎秀実が近衛内閣のブレーンとして日中戦争拡大方針を唱え、その影響もあって、近衛内閣は戦争へと踏み込みました。結局、尾崎秀実は1941年のゾルゲ事件でスパイであることが発覚し、処刑されますが、時すでに遅し。その頃はもうアメリカとも戦争をしようとしており、日本は後戻りできない状況でした。
 
 
総じて、シナ事変(日中戦争)はソ連の策略によって起こされたものといえるのです。
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