前回は自民党による改憲草案と素案の中の緊急事態条項の問題点を明らかにしました。今回は戦前のドイツの歴史を振り返って、ヒトラーが緊急事態条項をどのように活用して、独裁体制を築いていったのかをみていきます。
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ヒトラー独裁までの道
まず、当時のドイツの歴史を簡単に整理すると、1871年に始まったドイツ帝国は第一次世界大戦の敗北とともにドイツ革命が起きて帝政は倒され、ヴィルヘルム2世がオランダへ亡命した後に、ドイツは共和制へと移行し、ワイマール共和国が1919 年に成立しました。
ワイマール共和国はワイマール憲法に基づく議会制民主主義を採用し、ワイマール憲法は当時最も民主主義的と評価されました。
しかし、1933年のヒトラー政権発足をもってワイマール憲法は死文化し、ワイマール共和国自体も事実上滅んでしまったのですが、この時一体何が起こったのでしょうか。
結論から言うと、ヒトラーは大統領緊急令を活用したのです。
ワイマール憲法第48条で規定されたドイツの大統領緊急令は緊急事態条項に相当しますが、それを濫用をすることでヒトラーは抵抗勢力を一掃し、1933年に全権委任法を成立させることによってワイマール憲法体制を無力化しました。その後、ヒトラーの独裁政治が始まります。
詳しい流れを見てみると、1933年1月30日にヒトラーは首相に就任し、翌月の2月27日の夜に、ベルリンの国会議事堂が放火され、オランダ人の共産主義者が逮捕されました。ヒトラーはこれを共産党の組織的な陰謀だと決めつけ、翌28日に大統領緊急令を出し、ワイマール憲法が保障する7つの基本権、すなわち人身の自由、意思表明の自由、集会の自由、結社の自由、通信の秘密、住居の不可侵などを停止してしまいました。
実際に緊急令を出すのは大統領ですが、首相であるヒトラーが当時大統領だったヒンデンブルクに出させたのです。
これによってヒトラーはナチ党の私兵である突撃隊を使って、共産党の国会議員をはじめ、急進左翼運動の指導者たちを一網打尽にし、プロイセン州だけでたった数日で5000人以上を逮捕しました。また、ヒトラーは反ナチ的な地方政治を抑え込むことにも成功しました。
ヒトラーはそのように大統領緊急令を使うことで、抵抗勢力を一掃することに成功したのですが、戦後のニュルンベルク裁判で実は国会議事堂の放火は自作自演だったということが明らかにされています。
これが本当であれば、ヒトラーが合法的に独裁体制を樹立したという言説がありますが、それが間違いであることになります。そもそも合法的という言葉自体がナチスの幹部の一人、ヴィルヘルム・フリックが生み出したプロパガンダの一つですが、実際は合法に見せかけた非合法的な政権だったということになります。しかし「合法的」というプロパガンダによって、どんなに倫理的な問題があっても、これに従うしかなかったのです。
ヒトラーはその後、1933年3月23日に憲法を除く全ての法律を自由に公布できる権限を認める全権委任法を制定し、ワイマール憲法に拘束されない無制限の立法権を授権しました。ヒンデンブルク大統領はこれに異議なく署名し、ドイツの議会政治は事実上崩壊してしまいました。憲法はその後も正式に廃止されることはありませんでしたが、完全な空文と化してしまったのです。
さらに同年の7月14日の政党新設禁止法で、ナチ党以外一切の政党を禁じることで、ナチ党による一党独裁体制を確立しました。
そして1934年8月にヒンデンブルク大統領が亡くなると、憲法上は後任者を選挙で選ぶ必要があったのですが、政府は大統領と首相の権限を合体させた新しい役職「総統」をつくって、それにヒトラー首相を就任させるという法律を作りました。
ここでヒトラーの独裁体制が完成したと見ることができます。
ヒトラー以前の大統領緊急令の濫発の歴史
さて、振り返ってみますと、ヒトラー首相の誕生から全権委任法制定までたった50日、ナチ党以外一切の政党を禁じてナチ党独裁ができるまで半年、ヒトラーが総統になるまで一年半。あっという間に独裁体制が出来上がってしまいました。
危機に対応するためのワイマール憲法第48条を根拠に発せられた大統領緊急令によって、いつの間にかヒトラーの「独裁憲法」へとすり替えられたのです。
その大統領緊急令の発動条件は「ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるとき」でした。これも自民党案の緊急事態条項と同じように、発動要件が非常に曖昧で、解釈の余地が大きいです。
当時のドイツでは議会が停滞することも多かったので、ヒンデンブルク大統領はヒトラーが首相に就く前から大統領緊急令を濫発していました。そもそもヒンデンブルク大統領はドイツ帝国時代の陸軍元帥で、ドイツ帝政の郷愁派でした。第一次世界大戦の敗北とドイツ革命の勃発により、ドイツ帝政が崩壊した後、国民的英雄であったヒンデンブルクは1925年に中道保守勢力に担がれて、国民の直接選挙で大統領に選出されました。
大統領になったヒンデンブルクは表向きはワイマール憲法に忠誠を誓っていましたが、憲法の定める民主的な議会制民主主義に懐疑的でした。むしろ議会を衆愚政治ととらえ、帝政時代のような権威主義的な統治スタイルを模索していました。1929年に世界恐慌が始まると、ドイツにも影響が及び、30年代になると共産党とナチスが台頭し、議会が混乱し始めました。
それ以降議会が停滞することが多くなり、ヒンデンブルクが大統領緊急令を濫発するようになります。実際、1930年から32年の3年間に国会で成立した法案の数は、98件、34件、5件と年々激減していった一方で、大統領緊急令は5件、44件、66件とうなぎ登りに増加していきました。
一旦は野党による大統領緊急令廃止案が国会で可決されましたが、ヒンデンブルクはそれに反発して、国会を解散します。
そして大統領緊急令は結局残ってしまったのです。ワイマール憲法では、大統領は首相・閣僚の任免権と国会の解散権と非常時の緊急措置権の三つの権限が認められていました。
この三つがあったので、実質的に大統領による独裁体制を敷けるようになっていたのです。前述したように30年代から世界恐慌の煽りを受けて、共産党とナチスが台頭し、議会は混乱していたので、ヒンデンブルクが大統領緊急令を濫発した結果、議会政治は空洞化し、その間隙をつくようにヒトラー率いるナチス党は人気を集め、1932年7月には第一党にまで登り詰めました。
出自も良くわからない成り上がりのヒトラーを毛嫌いしていたヒンデンブルクや当時首相だったパーペンもその存在を無視できないようになります。パーペンはヒトラーに近づき、共産党などを国家中枢から追い出すことで利害が一致し、ヒンデンブルクもヒトラーを首相にすることには最初は躊躇していましたが、パーペンらに説得されることで、ヒトラーを首相に任命します。
「共産党の政権掌握を阻止するためには、反共を唱えるヒトラーを首相にするしかない」という考え方が当時のドイツの政界に広がっており、ヒンデンブルクもそれに同意したのです。
また、ヒトラーもヒンデンブルクと同じく、憲法のもとにある議会政治に反対的な姿勢を示していたので、ヒンデンブルクが模索していた権威主義的な統治スタイルを確立することをヒトラーに委ねたのだと考えられます。
そしてヒトラーは首相になった直後に、国会議事堂の火災を「公共の安全および秩序に著しい障害が生じた」と解釈し、大統領緊急令を出しました。
ワイマール憲法第48条には必要な場合には、武装兵力を用いて介入することを認められていましたし、人身の自由や意思表明の自由、集会の権利、結社の権利などの基本権を停止することも認められていたので、敵対勢力を合法的に一掃できました。
共産党を一掃するためにヒトラーを首相にするようにヒンデンブルク大統領に進言したパーペンはヒトラー内閣において副首相になりました。パーペンは自身のヒンデンブルクへの影響力を以て、ヒトラーを操り人形にできるという幻想に浸っていましたが、それが叶わず、後に失脚してしまいます。
あと、パーペンについて触れておきたいことが、パーペンもヒトラーと同じようにワイマール憲法を停止しようとしていたこともあるということです。パーペンは 1932年6月1日 から1932年12月3日まで首相を務めましたが、国民からの支持は全くと言っていいほどなく、各党の支持もほとんどなかったので、その期間も議会は混乱していました。
パーペンは「ボルシェヴィキに死を」という標語で反共産主義を掲げていたのですが、共産党議員によって、内閣不信任案が出され、ナチスもそれに加勢した結果、512対42で不信任案が可決されました。パーペンはこの大差の不信任の屈辱を受けた後に大統領命令を提出して議会を解散させました。
そしてパーペンは、憲法違反のクーデター計画をヒンデンブルクに提案しました。それは国会を解散した後に、選挙日程を示さず、その間に大統領が緊急事態を宣言して、国軍を出動させて議会を半年間停止し、その間に改憲を行なって大統領権限を強化する計画でした。
つまり、国会閉会中に現憲法に代わる「新憲法」を制定して、議会制民主主義を終わらせようとしていたのです。
しかし、パーペン内閣国防相のシュライヒャーがパーペンを失脚させたがっていたので、その計画に反対し、「パーペンの下で政府を作ろうといういかなる試みも国を混乱に陥れるだけ。ナチスが内乱を起こせば国軍にそれを鎮圧することは不可能」としてパーペンに退陣を求めました。そしてシュライヒャーは自分が首相に就任し、ナチ党の一部を取り込んで分裂を誘うべきと主張しました。
閣僚はほとんどシュライヒャーを支持し、パーペンはヒンデンブルクに助けを求めましたが、ヒンデンブルクもシュライヒャーを支持します。その結果、パーペンは退陣に追い込まれ、シュライヒャーが首相を1932年12月3日から務めることになります。
しかし、シュライヒャー政権は約二か月の短命で終わります。なぜなら、復讐に燃えたパーペンとヒトラーが急接近したからです。ヒトラーとパーペンはシュライヒャー政権の打倒とそれに代わるヒトラー=パーペン政権の樹立で合意しました。
こうした動きに気付いたシュライヒャーは、1933年1月23日にヒンデンブルク大統領にナチ党分断策の失敗の旨と、国会を解散して国家緊急事態を宣言し、ナチ党と共産党を禁止する事を提言しました。しかし、ヒンデンブルクは「パーペンが同じことを提案したのを君が潰したはずだ」と言ってこれを拒否しました。その後、シュライヒャーは1月28日に辞職を申し出て、ヒトラーを後継首相にするようヒンデンブルクに勧めました。
前述したように、パーペンもヒトラーを首相にするようにヒンデンブルクに提案していましたし、財界でもマルクス主義を恐れる声は多く、共産党よりはナチスの方がまだいいという考えが広まっていたので、ヒンデンブルクもヒトラーを首相にすることに決めます。
その後の流れは前述した通りです。
この戦前のドイツの歴史から学べることは、緊急令の発動要件を曖昧にすると、世界恐慌のような混乱時に時の権力者に濫発され、民主主義が崩壊させられてしまう可能性があるということです。大統領緊急令を利用したのはヒトラーだけではありませんし、憲法を停止して、議会制民主主義を終わらせようという考えもヒトラー独自のものではありませんでした。
ヒトラーが戦争に突き進んでいったために、戦前のドイツの歴史はヒトラーだけが注目されがちですが、おそらくヒトラーがいなくても、他の人物が独裁体制を築いていったと考えられます。
世界恐慌による大混乱の時代でしたし、帝国主義が世界に蔓延していたので、それは時代のせいだとも言えます。しかし、国家緊急権が容易に濫発できるようになっていたということも大きな原因の一つに挙げられます。それがなければ、ドイツにおいて独裁体制が生まれることはなかったでしょう。
人は権力に弱いもので、権力を一度握ってしまうと、その魅惑に負けて、取り憑かれてしまいます。一旦それに取り憑かれると、それを手放せなくなって、自身に何か不都合なことが起こると、それに頼ってしまいます。
だからこそ、国家緊急権という最終策は本当に必要な時に適切に扱えるように、発動要件を明確にして厳しくする必要があります。前回の記事でも言いましたが、自民党案の緊急事態条項は発動要件が非常に曖昧で、抑止力となる歯止めもほとんどなく、時限もない上に、緊急政令の定めることができる対象も限定されていません。為政者次第では何でもやりたい放題になってしまう恐れもあるのです。
もちろん、安易に戦前のドイツを現代の日本になぞらえるつもりはありません。ヒトラー大統領緊急令を出させた1933年当時はナチ党の突撃隊が約50万人、親衛隊が約5万人もいましたし、それだからこそ、抵抗勢力を一掃できました。
今の与党が親衛隊のような私軍を持っているわけではないので、ナチスのようなことができるわけがありません。しかし、前回に説明したように、緊急事態条項の発動要件を曖昧にすることで、緊急令を濫発し、暴力的ではない静かな独裁体制を敷くことは可能です。私たちはそこに注意する必要があると思います。
戦後のドイツのボン基本法における緊急令
さて、戦後のドイツの歴史を少しみてみましょう。
戦後、ドイツは東西に分割されましたが、西ドイツの首都、ボンで1949年に制定された、憲法に相当するボン基本法では、緊急事態条項は削除されました。草案では盛り込まれていたのですが、西側戦勝国の意向が働いて、削除されたのだと思われます。
1955年に西ドイツは一応の主権を取り戻しましたが、緊急事態に対処する権限は依然として米英仏が掌握していました。
この状態を早急に終わらせるために、10年以上の激しい議論の末、1966年に行われた基本法改正によって、緊急事態条項が盛り込まれました。
戦前のワイマール憲法との違いは、独裁者を二度と生み出すことのないよう、緊急時でも権力を一人に集中させず、執行権の野放図な拡大を許さない仕組みがあることです。
それは前回の記事でも書きましたが、ボン基本法における緊急事態条項の特徴を簡単に整理すると、
まず、緊急事態をケース毎に細かく区分していることが挙げられます。
・対外的緊急事態防衛事態(第115a~1条)緊迫事態(第80a条第一項及び第二項)同盟事態(第80a条第三項)・対内的緊急事態連邦・州の存立に対する急迫事態(第87a条第四項、第91条)災害事態(第35条第二項及び第三項)
そして、緊急事態の確認は内閣ではなく、連邦議会が行います。緊急事態の始まりも終わりも連邦議会が決めます。
また、非常に権限の強い合同委員会を緊急時用に設立することができるのですが、合同委員会がつくれるのは時限付きの法律です。
また、国民の基本権の制限については、信書・郵便・電報の秘密が当事者に通知されることなく制限されうることや、防衛事態の下で職業・職場などの選択の自由が制限されうることは規定されていますが、思想や表現の自由さえも制限しようというのはありません。
最後に、ドイツのボン基本法の第二十条の4項では、「すべてのドイツ人は、この秩序を除去しようと企てる何人に対しても、他の救済手段が存在しないときは、抵抗権を有する」と定められています。つまり、この抵抗権は緊急事態条項の濫用に対するひとつの歯止めになっています。
こうした点を踏まえて、2012年に出された自民党草案と2018年に出された素案における緊急事態条項はドイツに比べると穴だらけで、内閣の独裁も可能になるということを前回の記事でお話しました。
ドイツと日本は敗戦という歴史を共有しており、どちらも緊急事態条項に相当する国家緊急権が新憲法で削除されたという共通点を持っています。
違いはドイツは緊急事態を新設して、日本は憲法改正を戦後一度もやっていないということです。ドイツもやっているから日本もやっていいという主張もありますが、日本でも憲法改正して緊急事態条項を新設するのであれば、ドイツを見習う必要があるでしょう。
自民党案の作り手はあえて緊急事態条項の条文を曖昧にしているのでしょうが、戦前のドイツの歴史をみれば、それがいかに危ないことだということが分かると思います。
多くの国民の間でこの危険性の認識を共有することで、今のままの緊急事態条項で通されることのないようにする必要があると私は思います。
多くの国民が声をあげれば、作り手もそれを変えざるを得ません。
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