海外の反応-古き良き江戸の日本を訪れた欧米人の衝撃の評価

今回は江戸時代の日本を訪れた外国人の日本に対する評価をご紹介します。江戸時代のほとんどは基本的に鎖国をしていましたが、それでも一部の国の人たちは日本を訪ね歩くことができました。彼らの評価に日本の古き良き時代を感じざるを得ません。

 

世界的異例な江戸社会

 
 
まず日本人にも有名なドイツの医師、博物学者のシーボルトの日本評価をご紹介しましょう。
 
 
江戸時代において日本とドイツとの間に国交はありませんでしたが、シーボルトはオランダ東インド会社の船に乗ってオランダ人として来日し、日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となりました。(シーボルトの話すオランダ語は日本人にとっても違和感があり、怪しまれたという逸話があります。)
 
 
シーボルトは1826年にオランダ商館長の江戸参府に随行し、江戸までの道中での観察をまとめています。
 
 
「おそらくアジアのどんな国においても、旅行ということが、日本におけるほどこんなに一般化している国はない」
 
「大名の絶え間ない行列・活発な国内商業・その貨物の集散地大阪にはこの国のあらゆる地方から売手や買手が殺到するし、また巡礼旅行も盛んである」
 
(『江戸参府紀行』(斎藤信訳、平凡社東洋文庫)
 
江戸時代は各地に関所や番所が設けられ、人の移動が制限されていましたが、例外として伊勢神宮や日光東照宮、善光寺などへの参詣の旅は自由に許されていました。特に商売人や農家にとっては、伊勢神宮に祀られている天照大神は商売繁盛の神であり、五穀豊穣の神でもあった事から、伊勢神宮への参詣の旅は盛んに行われていました。シーボルトの紀行からもわかるように、実際に「伊勢へ七度熊野へ三度」といわれるほど、巡礼旅行をする日本人が多かったのです。一般民衆がそれほど安全かつ自由に動ける社会は世界的にみても異例だったようです。
 
 
 
歌川広重『伊勢参宮 宮川の渡し』/お蔭参りを描いた巡礼絵。
 
 
またシーボルトは1859年に再来日し、鎖国が解かれた江戸に関する感想も日記に残しています。
 
 
「江戸では、人が足繁く訪れる場所、寺の境内などの壁や垣根のそばに、およそ2フィートの箱がよく置かれている。そこではさまざまな小間物の必需品、楊枝などが、しっかり値つけて販売されているが、売り手はいない。客はなんでも好きなだけ手に取り、お金を足元にある小さな引き出しの中に入れる。世界で最も人口の多い都市の一つがこうである!この商売は貧しい家族、貧しい人々を支えるために、すべての町人たちとの信頼によって成り立っている。」(シーボルト日記―再来日時の幕末見聞記 石山 禎一 (翻訳), 牧 幸一 (翻訳) 八坂書房)
 
これはいわゆる無人販売のことですが、無人販売は治安が良い場所でないと成り立ちません。現代の日本でものどかな田舎で見たことがある人もいるでしょう。海外でもたまに無人販売所を見かけますが、決まって治安が良い場所に限ります。外国を何十か国行った私も見たことがありますが、ニュージーランドの田舎など犯罪が起こりそうもない牧歌的な場所でしか見たことがありません。それが当時世界で最も人口が多かった江戸にあったことにシーボルトは衝撃を隠せない模様です。
 
 
現代の東京でそのようなものがあれば誰でも驚くことでしょう。それと同じような感覚でしょうか。
 
 

欧米人が驚愕した江戸の秩序

 
 
シーボルトとともに出島の三学者に数えられるスウェーデン人のカール・ツュンベリー(1743~1828)もまた日本に対して興味深い指摘をしています。
 
 
「正直と忠実は、国中に見られる。そしてこの国ほど盗みの少ない国はほとんどないであろう。強奪はまったくない。窃盗はごく稀に耳にするだけである。それでヨーロッパ人は幕府への旅の間も、まったく安心して自分が携帯している荷物にほとんど注意を払わない。」
 
「日本の法律は厳しいものである。そして警察がそれに見合った厳重な警戒をしており、秩序や習慣も十分に守られている。その結果は大いに注目すべきであり、重要なことである。なぜなら日本ほど放埓なことが少ない国は、他にはほとんどないからである。さらに人物の如何を問わない。また法律は古くから変わっていない。説明や解釈などなくても、国民は幼時から何をなし何をなさざるべきかについて、確かな知識を身につける。そればかりでなく、高齢者の見本や正しい行動を見ながら成長する。国の神聖なる法律を犯し正義を侮った者に対しては、罪の大小にかかわらず、大部分に死刑を科す。 」C・P・ツュンベリー『江戸参府随行記』高橋文訳、平凡社東洋文庫
 
このようにツュンベリーもまた日本の秩序を絶賛しています。江戸時代の子どもたちは大人から道徳や知識を学び成長していったために秩序が乱されることのない社会が築かれていったのでしょう。江戸時代の厳しい法律がそうさせていたという見方もありますが、1855年に来日、伊豆の下田などに滞在したドイツ人商人F・A・リュードルフはこう記しています。
 
 
「日本では所有権を犯す犯罪は滅多に起こらない。この理由は、単に所有権を規定している厳しい法にばかりあるのではなく、国民の誇り高い性格の中に主として存在している。こうした性格により、日本人は嘘をついたり、物を盗んだり強奪することに、嫌悪感を持っている。」(『グレタ号日本通商記』中村赳訳、雄松堂出版)
 
 
確かに厳しい法律が治安の良い社会にさせていた側面もありましたが、日本人の誇り高い国民性のほうが大きな要因だったのでしょう。それは法律の厳しいからといって治安が良いとは限らない現代の国々をみれば分かることです。
 
 
 
ちなみに江戸時代の治安の良さは「歌枕を訪ねる旅」として全国を行脚していた松尾芭蕉が山賊などの被害に遭わなかったことからも分かります。
 
 
『三日月の頃より待し今宵哉』(月岡芳年『月百姿』)松尾芭蕉
 
 
 
もちろん日本でも戦国末期までは土一揆が頻発し、落武者もよく土民の剥ぎ取りに遭っていました。しかし江戸時代の徳川幕府治世下の日本は安全な社会が確立されていったのです。
 
 
その当時の東アジアを比べてみると、朝鮮半島では火賊、草賊が暗躍していたために京城の外に安全なところはありませんでした。李氏朝鮮時代は身分の格差が大きく、19世紀になると貴族階級の両班に対する農民の反乱は休む間もなく全国的に起きていました。また、台湾では「三年一小反、五年一大乱」といわれるほど反乱が多く、匪賊が跋扈していた社会で、匪賊と政府が二重に税金をとっていました。
 
 
 
300年近く続いた江戸時代でも確かに一揆もありましたが、世界史的にみれば比較的かなり安全かつ安心して暮らせる稀にみる超安定社会でした。それを象徴するエピソードが松尾芭蕉の「奥の細道」にあります。その内容の要約がこちらです。
 
 
那須の黒羽への道中で、雨が降り出し日も暮れたので、芭蕉は農家に一夜の宿を借りた。翌朝、また野中の道を歩く途中で馬が目にとまったので、近くの農夫に馬を借りた。見ず知らずの旅人に馬を貸してやるのが人情。目的地に着いた芭蕉は馬の鞍にお礼のお金を結び付け、馬は来た道を戻っていく。
 
 
こんな短いエピソードですが、当時の義理人情豊かな日本の社会風土が読み取れます。初対面でも上の逸話のようにお互いを信頼しあえるというのは猜疑的に人を見なくてもいいという社会基盤があるからこそでしょう。
 
 

敵も衝撃を受けた日本人の精神性

 
 
 
そのほか、幕末に開国を迫ったり、日本人と戦ったいわば「敵側」の欧米人が述べた日本人の特性についてご紹介しましょう。
 
 
 
「上流下流を問わず、日本人は極めて礼儀作法を重んぜり。此の点より見れば、恐らくは日本人は世界一の礼式家ならむ」(『欧米人の日本観』上巻、アルフレ・ルーサン「日本沿岸戦記」より)
 
 
アルフレ・ルーサン(1839-1919)は1863年の下関戦争の英仏米蘭連合軍の長州砲撃時にはフランス士官でした。いわば攘夷派と戦った士官が日本人の礼儀作法について評価しているのは興味深いです。
 
 
 
また、黒船で開国を迫ったことで有名なペリー(1794-1858)は1854年の安政南海大地震に遭遇し、このように述べています。
 
「地震によって生じた災禍にも拘わらず、日本人は落胆せず、不幸に泣かず、男らしく仕事にとりかかり、意気阻喪することもほとんどないようであった」「ペリー提督日本遠征記」
 
日本人が自然災害に対して悲痛を色に現わさないということは過去の記事「イエズス会による戦国時代の日本とヨーロッパ比較が面白い!」でも触れましたが、自然災害に対する立ち直りの早さは昔から現代にまで連綿と受け継がれていると言っていいでしょう。
 
 
 
最後に、1853年ペリーとともに来航した画家ハイネ(1827-1885)の記述をご紹介しましょう。
 
 
「日本人の風俗は純朴で、親切で気さく、知的でもあり、国を愛する心は強い自尊心まで至っており、また知識を得るためには心を広く開けている」

(『世界周航日本への旅』)
 
 
以上で、江戸時代に日本を訪れた外国人の評価のご紹介を終わりにしますが、いかがでしたでしょうか?外からの視点はいつの時代も面白いですよね。これを見て古き良き日本を感じた人も少なくないのではないでしょうか。
 
 
 
現代の日本では失われつつある点もあれば、連綿と受け継がれている点もあるかと思います。
 
 
良い部分はこれからも大事にして未来に継いでいきたいと私は思いました。
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