イエズス会による戦国時代の日本とヨーロッパ比較が面白い!

ルイス・フロイスといえばイエズス会の宣教師として戦国時代の日本でキリスト教の布教活動をする傍ら、戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を書き残したことで有名です。
 
 
それだけでなく『日欧文化比較』という本も書いていて、当時のヨーロッパと日本の違いを様々な側面から端的に箇条書きしていて、当時のヨーロッパと日本の社会風土や文化などを知れるかなり興味深い内容になっています。その一部をご紹介しましょう。
 
 

 
 

男女関係の比較

 
 
・ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸付ける。(『ヨーロッパ文化と日本文化』ルイス・フロイス著 岡田章雄 注訳 岩波文庫 による。以下、引用先の明記がない引用文は同著による引用とする
 
 
【解説】
今では日本でも夫婦の間で財産共有する家庭も少なくないと思いますが、昔は違っていたようです。貸し借りが夫婦間で行われ、しかも利子付きというのが怖いですね(笑)
 
 
ちなみに鎌倉時代から男女が結婚する際に男性の家に持っていく女性側の持参金は「敷金」と言われました。仮にその後離婚し、女性が男性の家を離れるときは夫側が受け取っていた敷金の金額をそっくりそのまま女性に返すという社会ルールがあり、それは今日の賃貸の敷金システムにまで繋がっています。敷金の歴史は意外と長かったんですね~。
 
 
・ヨーロッパでは、妻を離別することは、罪悪である上に、最大の不名誉である。日本では意のままに幾人でも離別できる。妻はそのことによって、名誉も失わないし、また結婚もできる。
 
【解説】
日本における夫婦の離婚は離縁といい、妻の実家と協議のうえで離婚する場合もありましたが、一般には夫の一方的意思によって行われたようです。その際、離縁状を妻に交付するのがルールで、妻はこの離縁状がなければ再婚することはできませんでした。逆を言えば、正式に離縁し、離縁状さえあれば自由に再婚することができたのです。
 
 
一方、ヨーロッパにおいては離婚は宗教上の問題でかなり困難でした。カトリックの教義上は離縁は認められていません。カトリックの教義では婚姻関係は主イエス・キリストの前で結ぶ秘跡そのものであり、神の前で「男女が一体になる」ものとしています。故にそれを取り消すこと、つまり離婚は原則的に出来ないとされていたのです。
 
 
その離婚の難しさを象徴する話をご紹介しましょう。
 
 
例えば、イングランド王のヘンリー8世が最初の妻であるキャサリン・オブ・アラゴン(メアリーの母)と離婚して、その侍女であるアン・ブーリン(エリザベス女王の母)と再婚しようと画策しましたが、ローマ教皇に拒否されました。その結果、ヘンリー8世は再婚に向けて強行突破すべく、カトリック教会から離脱し、自らを首長とするイングランド国教会をつくってしまいました。その後、男子の世継ぎを得るべく、生涯にわたって6度も結婚をしたという話は有名です。
 
 
カトリック教から離脱して新しい教会を作ってしまうなんて・・・。その話を聞くだけでヘンリー8世の再婚への執念の凄まじさが伝わってきますが、当時のヨーロッパではそれほど離婚が難しいことだったのです。
 
 
しかし例外があって男性が性的不能であると判断されたときは離婚が認められました。なんともシュールな話ですが、教会裁判において、検証会が開かれ、時間内に実地で奥さん相手に性行為ができるかどうかで性的不能かどうかを診断していたようです(参考文献;『世界悪女大全』桐生操 著)。
 
 
 
ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格におこなわれる。日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける。
 
・ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きな所に行く自由をもっている。
 
【解説】
ヨーロッパでは聖母マリアの処女懐妊神話があるために貞節を守ることが大事でした。そのため両親は娘を閉じ込めるのが一般的だったようです。日本ではヨーロッパのような貞操観念はありませんでした。また、ヨーロッパにおいて妻の外出に際して夫の許可を必要とするほどだったということはそれほど女性が強姦に遭う可能性が高い社会だったという裏返しといえるかもしれません。実際、15世紀以降の西洋では人口の増加もあり、傭兵が溢れかえりました。そのため、国家はそれら傭兵を養うだけの財産がなく、略奪そして強姦する部隊が増加しました。
 
 
一方日本では戦国時代という戦乱の時代でさえも女性は自由に外に出られたということは、武士同士の争い以外は案外治安が良かったのかもしれません。ただ、戦国時代の日本でも人攫いがあり、外国への奴隷貿易の商品とされていたという、歴史の明るみに出ない闇の歴史があります。
 
 
16〜17世紀を通じ、ポルトガル人が日本で日本人を奴隷として買い付け、ポルトガルやインド、アフリカ、アルゼンチンなど海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展しました。日本における奴隷貿易の存在を指摘する資料は数多くあり、例えばルイス・フロイスの『日本史』では、島津氏の豊後侵攻により捕虜にされた領民の一部が肥後に売られ、そこで更に海外に転売されたといいますし、ポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラも日本人の女性奴隷は、日本で交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫や黒人水夫にさえも、妾として売られていたといいます。
 
 
豊臣秀吉は自国の民が九州において大規模に奴隷として売買されていることを知ってからは反キリスト教に態度を変えて、宣教師の退去を命じるバテレン追放令を出しました。その中身に
 
 
中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する。(「『天正十五年六月十八日付覚』原文」の大意 Wikipediaより引用)
 
という項目があることからも奴隷貿易があったことが伺えます。
 
 
人攫いや奴隷貿易は当然秘密裏に行われるもので、戦国時代の一般の村人などはそういった背景があることを知らなかったから、子女の外出を禁ずることなく、自由にさせていたのかもしれません。
 
 
 
 

教育の比較

 
 
 
・われわれの間では女性が文字を書くことはあまり普及していない。日本の高貴の女性は、それを知らなければ価値が下がると考えている。
 
・われわれの子供は始めに読むことを習い、その後で書くことを習う。日本の子供はまず書くことから始め、後で読むことを学ぶ。
 
・われわれの間では世俗の師匠について読み書きを習う。日本ではすべての子供が坊主の寺院で勉学する。
 
【解説】
以上の指摘にあるように日本では戦国時代から識字率が高かったことが伺えます。同じ宣教師であったフランシスコ=ザビエルも「大部分の人々は、男性も女性も読み書きができ、特に武士や商人は際立っている」と日本人を評価しました。また、当時仏寺は貴族や武士だけでなく庶民のための教育機関として役割を果たしていました。江戸時代に広まった寺子屋はこの頃からもあったようです。(室町時代の頃からあったという説もあります。)
 
 
 
・われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ[言葉?]によって譴責するだけである。
 
【解説】
日本においては体罰教育というのはなかったようです。江森一郎氏の『体罰の社会史』でも江戸時代の寺子屋、郷学、藩校ではほとんど体罰がなかったことを資料を駆使して立証しています。体罰教育がされるようになったのは明治期の頃からで、特に日露戦争後に軍事力を高めるために体罰教育が盛んにされるようになったようです。明治期に欧米の文化を取り入れ、文明開化したといわれていますが、ヨーロッパの体罰教育という慣習まで取り入れてしまったといえるかもしれません。
 
 

子どもの比較

 
 
・われわれの子供はその立居振舞に落着きがなく優雅を重んじない。日本の子供はその点非常に完全で、全く賞讃に値する。
 
われわれの子供は大抵公開の演劇や演技の中ではにかむ。日本の子供は恥ずかしがらず、のびのびしていて、愛嬌がある。そして演ずるところは実に堂々としている。
 
【解説】
フロイスの文章の中には日本人への差別意識が垣間見えますが(こと宗教観に対して)、子どもに関しては絶賛をしています。毅然とした子どもたちが多かったことが伺えます。今の日本人と比較して、同じことが言えるかどうかというのは少し疑問に感じますね。
 
 
ちなみに上の文の「演劇」とは能や舞のことだと思われます。能を演ずる子どもたちに感銘を受けていることが分かりますね。
 
 

その他の日本の特殊性

 
・われわれの間では窃盗をしても、それが相当の金額でなければ殺されることはない。日本ではごく僅かな額でも、事由のいかんを問わず殺される。
 
【解説】
日本では昔から盗みが稀でした。フランシスコ・ザビエルが残した資料(1549年11月5日にゴアに滞在する宣教師らへ宛てた書簡)の中にも
 
 
人々は泥棒に対して厳しく対処し、彼らにとって盗むことは決して許しがたい行為とされている。(中略)今まで私が見てきたあらゆる民族の中で、それがたとえキリスト教徒であろうと、なかろうとも、窃盗に関しては日本人こそ一番徹底して厳しいのである。」
 
 
と書かれています。人のものを盗んではいけないという強い観念はこの頃からあったのです。よく落し物が交番などに届けられ、持ち主のもとに戻るということに対して外国人が驚きます。東日本大震災後に強奪や空き巣がほとんどなかったことが外国メディアで驚きとともに報じられました。
 
 
「商店の襲撃や救援物資の奪い合いは全く見られず、市民が苦境に耐えていることに感動する」(ニューヨーク・タイムズ)
 
 「なぜ、日本では災害につきものの略奪が起きないのか、米メディアでは次々と議論が巻き起こっている」(米CNN)
 
「日本人の冷静な対応は世界を驚かせた。…東京では数百人が広場に避難していたが、男性は女性を助け、広場にはゴミひとつ落ちていなかった」(環球時報)
 
海外ではこのような震災の後は略奪・強盗が当然のように行われるので、海外メディアは震災直後でさえも秩序が保たれている日本を称賛したのです。
 
 
実際は空き巣などの犯罪は0ではありませんでしたが、東北6県すべてで犯罪率が前年より減少しているというデータがあります。(参考:『日本の怖い数字』佐藤拓 著)
 
 
 
中には外国人による犯罪もありましたし、むしろ震災がゆえに犯罪が減ったといえるかもしれません。
 
 
そして日本人が窃盗を毛嫌いするのは昔からの日本人のDNAがそうさせているといえるのかもしれません。
 
 
 
・我々の間では財産を失い、また家を焼くことに、大きな悲しみを表す。日本人はこれらすべてのことに、表面はきわめて軽く過ごす。
 
【解説】
災害に対して悲痛を色に現わさないという日本人の性格は、よく外国人の記録に指摘されています。日本は地震や津波、噴火、台風など災害が多いためにそうした国民性が培われたのかもしれません。史上最大規模の大震災である東日本大震災からもう立ち直りつつある日本の姿は、昔から自然とともに生きてきた先祖代々の日本人と重なるのは私だけではないと思います。
 
 
 
以上が、ルイス・フロイスによる『日欧文化比較』の一部紹介です。
 
 
ここでは紹介しきれなかった興味深い内容がまだまだたくさんありますので是非読んでみてください。昔の日本人を知ることは今の自分たちの社会を理解するうえでも重要なことです。そして当時の日本とヨーロッパの比較を通してまた新しい歴史の見識が広まると思います。
 
 
 

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