カラー写真で感じる明治初期の世界!150年前の大都市・農村の姿

今回は前回に引き続き、明治時代のカラー写真(水彩色による着色技術)をご紹介します。前回は「女性」に焦点を当てましたが、今回は「風景」や「文化」に焦点を当てました。昔の東京や横浜、大阪、京都、長崎などの大都市や農村の姿はどんな感じだったのか、昔の文化はどのようなものだったのか。解説付きでカラー写真をご紹介します。

 

人力車に乗る女性

写真着色:日下部金兵衛

人力車は明治時代以降に広まり、昭和時代初期に鉄道や自動車が普及するにつれて減少していきました。江戸時代までは駕籠が輸送・交通手段として主流だったのでこの写真に時代の変遷を見ることができます。

 

駕籠の行列

写真着色:日下部金兵衛

駕籠は1872年(明治5年)までには交通・輸送手段としての役割を終えて、人力車に取って代わられました。しかし、人力車では通れないような峠を越える際はこのように駕籠が使われました。これはその時の様子を捉えた写真だと思われます。

 

東京 銀座

写真撮影:内田九一 /写真着色:日下部金兵衛 / The New York Public Libraryより

これは今の銀座のメインストリートの写真です。建物が既に洋風で、まるでどこかの外国の都市かのようですね。着色は日下部金兵衛によるものですが、元々の写真は明治天皇を撮影したことで有名な写真家の内田九一による写真です。この写真は1875年(明治8年)以前に撮られたものといわれているので、江戸幕府が鎖国を解いて開国したのが1854年ですから、開国後約20年でこれほど洋風建築が広まっていたことの証拠となる写真でもあります。

 

浅草

写真着色:玉村康三郎 /長崎大学附属図書館 幕末・明治期 日本古写真メタデータベースより

これは1897年(明治30年)頃の浅草の写真で、左奥の塔周辺は現在のショッピングセンターみたいな勧工場がありました。和洋が入り混じっていて面白い写真です。

 

江の島

写真着色:玉村康三郎 /長崎大学附属図書館 幕末・明治期 日本古写真メタデータベースより

 

これは満潮時と思える江ノ島の風景で、写真にあるような木橋は明治になるまではなかったといいます。

 

明治になって橋が架かるまでは以下の葛飾北斎の絵が表すように、干潮の時に渡っていたようですね。

葛飾北斎『富嶽三十六景』より相州江の島

 

横浜

写真着色:玉村康三郎 /長崎大学附属図書館 幕末・明治期 日本古写真メタデータベースより

これは横浜本町通りの写真です。年代は不祥ですが、洋風の建物が軒を連ねているのがわかります。横浜は幕末までは静かな漁村でしたが、開国後は外国人の居住区が設置されたり、外国貿易商人の拠点として使われることで大きく発展していきました。横浜居留地は当初は幕府が勝手に造成したため日本風の造りでしたが、1866年に大火事があった後は、洋風に改められました。今の横浜もどこか異国情緒があるのはそういった歴史背景があるからといえるでしょう。

 

写真着色:玉村康三郎 /長崎大学附属図書館 幕末・明治期 日本古写真メタデータベースより

この写真もまた横浜の本牧十二天につくられた茶屋の写真です。この辺りは外国人遊歩新道が設置され、沿道には茶屋が設けられ、海水浴や潮干狩りで賑わいました。

 

大阪 道頓堀

写真着色:玉村康三郎 /長崎大学附属図書館 幕末・明治期 日本古写真メタデータベースより

 

大阪の道頓堀の写真です。大阪は江戸時代から経済の中心地でもあったので、この写真からもその賑わいは伝わってきますね。大阪は比較的あまり洋風化せず江戸時代の名残が強く残っていたようです。

 

京都

写真着色:玉村康三郎 /長崎大学附属図書館 幕末・明治期 日本古写真メタデータベースより

これは鴨川の四条付近の納涼床の写真です。客と芸舞妓が興じている様子がうかがえます。京都中心地はいまでこそ外国人でごった返していますが、海に面してないために外国貿易商人がやってくることもなく、開国後でも外国人は自由に日本旅行することはできなかったので、京都は他の貿易港のように洋風化することがありませんでした。それゆえに京都は日本らしさが現在にも残っており、それが日本人だけでなく外国人を魅了する大きな要因の一つなのでしょう。

 

長崎港の絶景パノラマ

写真着色:玉村康三郎/長崎大学附属図書館 幕末・明治期 日本古写真メタデータベースより

長崎港のパノラマ写真です。長崎港は江戸時代からオランダの貿易窓口として栄えました。明治期でも三菱の造船所がつくられ、多くの船が行き来ししました。その当時の繁栄ぶりがわかる写真ですね。今でも稲佐山からの長崎の夜景はとても綺麗で、世界新三大夜景の一つに選ばれるほどです。

 

箱根

写真着色:玉村康三郎 /長崎大学附属図書館 幕末・明治期 日本古写真メタデータベースより

旧箱根宿の三島町から小田原町方面を見た構図の写真です。家並みはほとんど江戸時代のままで、昔の佇まいが残っています。

 

中山道の宿駅

写真着色:日下部金兵衛 /長崎大学附属図書館 幕末・明治期 日本古写真メタデータベースより

江戸の日本橋と京都の三条大橋を結ぶ中山道の宿駅の一つ「長窪宿」があった長窪村の光景です。茅葺の家が並び、笠をかぶった旅人が歩いているこの光景はまるで江戸時代のようですが、実は明治中期に撮られたものです。都市部は洋風化される一方で、山間部などの田舎は時代の流れに取り残されたように風景を保っていたようです。

 

相撲

撮影者・着色者未詳 / 長崎大学附属図書館 幕末・明治期 日本古写真メタデータベースより

 

相撲の試合開始前の写真です。相撲は奈良時代から宮中行事として行われ、神社では農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼として神事相撲が行われました。江戸時代では庶民の娯楽として隆盛を極めましたが、明治になると文明開化により衰退していきます。しかし明治天皇の天覧相撲(天皇が相撲を観戦すること)が繰り返されることで、伝統芸能として生き長らえることができました。それが今にも続いています。

 

古道具屋

写真着色:玉村康三郎 /長崎大学附属図書館 幕末・明治期 日本古写真メタデータベースより

急須や茶わんなどが置かれた古道具屋です。昔のお店は中に入って商品を見れるような構造ではなく、軒前でしか見れないようなタイプのお店が主流でした。今ではこのようなお店は日本にはほとんどありませんよね。

 

村の子どもたちの集合写真

写真着色:日下部金兵衛

この写真の左下には”COUNTRY CHILDREN”とだけ書いてあるので、外国人向けの写真として日本の田舎の子どもたちを紹介したものでしょう。詳細は不明ですが、一人だけ大人がいるので小学校の子どもたちと先生だと思われます。日本では1872年(明治5年)に学制が始まりましたが、有償かつ強制力が弱かったために通学率はなかなか上がりませんでしたが、1900年(明治33年)に尋常小学校の授業料を無償化にした結果、1915年(大正4年)には通学率が90%を超えました。

 

日下部金兵衛は1912年(大正元年)に写真の世界から引退しているので、この写真は子どもたちの多さから1900~12年の間だと思われます。

 

写真着色:日下部金兵衛 /長崎大学附属図書館 幕末・明治期 日本古写真メタデータベースより

 

英語で「桜の花、野毛山、横浜」と記入されているので、横浜、野毛山の桜並木であることがわかります。野毛山の桜並木は今でも桜の名所として知られ、みなとみらい21地区を眼下に見下ろせる高台にあり、ソメイヨシノなど約250本の桜が咲き誇ります。

 

桜は古代から日本人に愛でられており、日本文化を象徴する大きな要因の一つです。『万葉集』でも桜の季語がたびたび登場することからもそれが分かります。また、桜は穀物の神が宿るともされ、桜の開花は田植え開始の指標ともされました。

 

江戸時代には河川の整備に伴って、護岸と美観の維持のために柳や桜がたくさん植えられました。

 

桜を愛し、桜で季節を感じる心は今も昔も変わっていないようです。

 

以上で、明治時代のカラー写真のご紹介を終わりにしますが、どれもこれも古き良き時代を感じる良い写真だったと思います。旅行をする際はこのような昔の写真を見比べながら日本文化と風景の変遷を味わうのも一興でしょう。

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