11枚の写真が物語る「南京大虐殺」の実態【教科書には載らない】

南京大虐殺はあったのかどうかという議論は未だに決着がついていませんが、それを判断するには証言だけでは工作の可能性があるので当時の様子を伝える写真なども必要となります。

 

ということで今回は大人の事情によりテレビや新聞では絶対に公開されないであろう南京陥落後の写真をご紹介します。これを見ることで今まで多くの人々の中にあった「南京大虐殺」のイメージが変わるかもしれません。

 

 

南京陥落直後の写真

 

日本軍は1937年12月9日、空から「投稿勧告文」を投下したのですが、蒋介石最高司令官の遁走後に現場司令官を任せられた唐司令官がその勧告文を拒絶したことで、南京を攻撃することになりました。

 

南京が陥落したあと、中国兵は逃げるか、軍服を脱ぎ捨て、一般人に紛れ込みました。その後の様子を伝える写真をご紹介します。

 

今回ご紹介する南京 城内 の 写真の多くは『 東京日日新聞』 の カメラマン、 佐藤 振寿氏によるものです。

 

・防空壕から出てくる女性

この写真は南京城陥落翌日の様子を伝える写真です。防空壕から出てくる女性を迎える日本兵が映っていることがわかります。女性は怯えている様子はなく、むしろ笑顔のようにも見えます。

 

・露店販売する南京の人々

撮影:佐藤振寿 1937年12月15日 佐藤氏の手記:「十二月十五日 難民区の外側では道路沿いに、自家菜園でとれたものを売っている者もいた」

 

撮影:佐藤振寿 1937年12月15日 佐藤氏の手記:「十二月十五日 南京難民区 どこかで営業用に使っていた湯沸し機を人の多い難民区に持ちこんで、営業をはじめていた」

 

これらが南京陥落から二日目の様子です。道路沿いに農作物を売る人がいたり、湯沸しをして営業準備をする人々の様子を見る限り、大量虐殺があったとは思えません。

 

下の写真を見てもわかるように、一般市民が日本兵を恐れている様子は全くありません。水餃子を提供する女性、銃を険しい表情で見る子供、その後ろで笑顔を見せる子供などの表情からも和やかな雰囲気が伝わってきます。

 

撮影:佐藤振寿 1937年12月15日 佐藤氏の手記:「十二月十五日 南京安全区付近で 中山北路の東側の安全区付近では水餃子の露天が出ていた。日本兵のお客の第一号だろうか。南京へ入城した日本兵は南京市民を虐殺していたとデマがとんだが、日本兵と市民は友好関係にあった」

 

 

しかし、東京裁判 の 判決 では

 

「 南京 が 占領 さ れ た 後、 最初 の 二、 三日 の 間 に 少なくとも 一 万 二 ○ ○ ○ 人 の 非戦闘員 で ある 中国 人 男女 子供 が 無差別 に 殺害 さ れ、 占領 一 カ月 の あいだ に 約 二 万 の 強姦 事件 が 市内 に 発生 し た。……」( 朝日新聞 法廷 記者 団 著『 東京裁判』〈 下〉)

 

とされています。南京陥落(12月13日)後の2、3日で1万2000人の非戦闘員が殺されたとされていますが、その当時を伝える上の写真からそのような残虐性を見出すことができません。南京の人々の表情が何よりもの証拠です。

 

東京裁判の判決内容と写真でみる現実とはかなりギャップがあることが分かりますね。

 

・賑やかな子どもたち

撮影:佐藤振寿 1937年12月15日 佐藤氏の手記:「十二月十五日 南京難民区 日本人カメラマンが行くと、積極的に子どもをかかえて撮影に協力してくれる。日本兵、日本人を恐れていなかった」

 

この写真は特に笑顔いっぱいの子どもたちがいて、日本人に対して恐れは全くなく、むしろ親しみを感じます。

 

撮影:佐藤振寿 1937年12月15日 佐藤氏の手記:「十二月十五日 南京難民区で撮影した時、難民たちは日本人を恐れることもなく、カメラの前に立った。白布に赤い布を丸く切って、日の丸の印として、日本兵に反抗する意志のないことをあらわにしていた」

 

この写真もまた、日の丸の布を腕に巻く少年に対する大人たちの温かい眼差しがあることが見て取れます。

 

これらの長閑な写真が撮られた1937年12月15日は中国によれば「南京大虐殺」のクライマックスになっていた時期です。

 

ですが、それだとこの写真が物語る和やかな雰囲気で過ごす南京の人々の情景を説明することができません。

 

南京入城後の写真

 

・南京入城式

南京入城式(1937年12月17日、「支那事変写真全集」<中・上海戦線>朝日新聞社、1938年3月より

 

南京陥落から4日後、松井大将を筆頭とする日本軍が南京入城式を開きました。

 

・日本兵と遊ぶ南京の子どもたち

 

その後も南京の人々は日本軍に全く恐れていないことが写真でわかります。むしろ日本軍と一緒に遊んでいるほどです。下の2枚の写真をご覧ください。

 

日本兵と遊ぶ中国の子どもたち(「支那事変全集」<中・上海戦線>朝日新聞社、1938年3月)1937年12月20日、林特派員撮影

 

楽しげな様子がイキイキと伝わってくる写真です。作られた表情にも見えません。子どもたちの表情が一番正直でもありますから。

 

・お菓子を配る日本兵

撮影:佐藤振寿 1937年12月17日 佐藤氏の手記:「十二月十七日の入城式が終わる頃、難民区では宣撫班が菓子などを配ると、大人も子どもも大勢が集まってきた」

 

お菓子などを配る日本兵に群がる南京の人々の様子です。人々の日本兵に対する警戒心のなさが如実に現れていますね。

 

・布告を見て喜ぶ南京市民

几帳面に布告文を貼っている後ろで現地人が前のめりにそれを見ようとしています。その内容は以下の通りです。

 

「…… 特 ニ 敵軍 ト 雖 モ 抗戦 意志 ヲ 失 ヒタル 者 及 一般 官民 ニ 対 シテハ 寛容 慈悲 ノ 態度 ヲ 取 リ 之 ヲ 宣撫 愛護セヨ」

 

要は戦闘心を失くした者と一般市民に対しては寛容にしなさいという内容です。東京裁判の判決では日本軍が非戦闘員を大虐殺したとされていますが、現実は真逆でした。

 

日本軍の行動に感謝する文書

 

実際は南京陥落後は南京に残留した婦女子などの非戦闘員はすべて国際委員会が管理する安全区内に避難していました。国際委員会のラーベ委員長は、日本軍に次のような感謝状を出していました。

 

「拝啓 私 ども は 貴下 の 砲兵 隊 が 安全 地区 を 攻撃 さ れ なかっ た という 美学 に対して、 また 同 地区 における 中国 民間人 の 援護 にたいする 将来 の 計画 につき、 貴下 と 連絡 を とり 得る よう になり まし た こと に対して 感謝 の 意 を 表する もの で あり ます」( 東京裁判 速記録 二 一 〇 号)

 

仮に虐殺や強姦があったとしたらこのような感謝状が送られるでしょうか?

 

他にも、金陵大学マッカラム医師の日記・手記には

 

「◆( 日本 軍) 礼儀 正しく、 しかも尊敬 し て 私 ども を 処遇 し て くれ まし た。…… ◆ 十二月 三十 一日、 今日 私 は 民衆 の 群…… を 目撃 し まし た。 あと で 彼ら は、…… 日本 軍 の 手 によって 配分 さ れ た 米 を 携帯 し て 帰っ て 来 まし た。 今日 は 若干 幸福 な 人々 が おり まし た。 ◆( 一月 三日) 最近 七、 八 名 の 大変 に 立派 な 日本 兵 が 病院 を 訪問 し まし た。…… 彼ら に 病人 に 与える 食物 の 欠乏 を 語り まし た。 今日 彼ら は 若干 の 牛肉 を 見つけ て、 一 ○ ○ 斤 の 豆 を もっ て き まし た。 我々 は 一 箇月 も 病院 で 肉 なんか 食べ て なかっ た ので、 これら の 贈物 は 大いに 歓迎 さ れ まし た」( 東京裁判 速記録 二 一 〇 号)

 

このような手記が当時を伝える写真の様子と合致します。

 

当時の外国メディアは南京大虐殺を報じたのか?

 

当時の外国メディアも南京での日本軍による虐殺を報じるものはありませんでした。例えば、南京陥落後の12月13日~31日までの期間、『ニューヨーク・タイムズ』と『ロンドン・タイムズ』は南京でパネー号(米)の撃沈とレディーバード号(英)が攻撃されたニュースを連日報道していました。

 

南京攻略戦の取材陣は上の二社だけでなく、ロイター通信、AP通信、パラマウント・ニュースなどの各記者がいましたが、南京城での「大虐殺」を記事にした記者は一人もいません。

 

仮に一人でも非戦闘員が殺されたらそれは戦時国際法に違反することなので、大ニュースになっていたでしょう。

 

このように当時の現場写真と新聞メディアや関係者の手記などを見る限り、「南京大虐殺」が本当にあったとは到底思えません。

 

あなたはどう思いますか?

 

私自身は「南京大虐殺」は日本を貶めるための中国とGHQによるデマだと認識しております。

 

そう結論付けするためにはもう少し歴史検証が必要ですが、今回はここまでにして次回以降の記事に引き継ぎます。

 

余談になりますが、南京入城を果たした松井大将は東京裁判の判決で絞首刑とされました。

 

松井大将の判決文には「(陥落後から)この六、七週の期間において、何千人という婦人が強姦され、十万人以上の人が殺害された・・・」(『東京裁判』(下))とあります。

 

しかし、陥落後にそのようなことはあったとは思えません。

 

松井大将は戦前に中国に留学しており、中国への愛が強い人でした。だからこそ、戦争になってしまっても中国の文化財は壊さないように命令を出していましたし、南京入城式に向かう道中で焼け跡にいた赤子を拾い、大将自ら温泉に入れて毛布にくるみ、ミルクを飲ませて育て、松子と命名して可愛がって、入城式の際も一緒に連れていたといいます。(『興亜観音』創刊号)

 

戦中でさえも人の心を忘れなかった優しき大将がそのようないわれなき汚名を着せられ、無念のうちに絞首刑にされたということを思うと心が痛みます。

 

戦争自体を肯定するわけではありませんが、そのような人たちの屈辱を晴らすためにも客観的な歴史検証を通して「南京大虐殺」の真相を世界に広めていけたら幸いです。

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